- 2006-01-23 (月)
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「いただきます」論争勃発?
なんだかとても興味深い記事をみつけた。
その前になんだか実家の両親が喜んで聴いてそうなラジオ番組が発端だったのがちょっと懐かしくて笑えた。
考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争-家庭:MSN毎日インタラクティブ
TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半~、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。番組でのやり取りを参考に、改めて「いただきます」を考える。
引用した通り「いただきます」というごくごくありふれた日常会話をめぐってちょっとした論議が巻き起こっているそう。
言葉の奥に隠れた意味や想いなどが渦巻いて世相や社会環境を反映しつつ、単に言葉の問題以上の教育問題や宗教・食文化の問題にまで発展しそうな勢い。
結論も正解もない問題かもしれないけれど「いただきます」という言葉をめぐってワタシもひとつ考えてみようと思う。
「いただきます」は誰のため?
1人で食事をすることが多くなって久しい。
自分で作り(或いは買い)1人で食べる食卓に言葉はない。
淡々と目の前にあるカロリーの塊を口に運ぶ。
時には姿勢を崩しTVを観ながら、またある時はPCのマウス片手にハンバーガーをほうばる。
目の前の食べ物に特に想いを馳せることもない。
たまに頑張って新しいレシピにチャレンジしたときや奮発して何かを買ったときなどちょっと有り難い気持ちに浸ったり、頑張った自分を褒めてあげたりもする。
そう。
そこには自分に向けた想いしかない。
記憶をほんの少し遡ってみる。
母親の作ってくれた料理を囲み家族4人の穏やかな食卓。
そこには自然と「いただきます」「ごちそうさまでした」という言葉があった。
そして母親の「お粗末さまでした」という言葉もセットだった。
子供の頃は深く考えてはいなかったものの無意識の内に作ってくれた母への感謝の想いが込められていたと思うし、単に習慣ということもあったと思う。
家族揃っての食事の席でのあいさつは食事の時間というメリハリをつける上でも必要だったと思う。
いただきます=戴きます
「戴く」は「もらう」の謙譲語。
「いただきます」は頂戴するという気持ちがあって初めて自然に発する想い・言葉。
それは強要されるものではないと思うし、声に出す必要もないと思う。
手を合わせなきゃいけないだとかみんなでいっせいに声を張り上げなきゃいけないだとかはナンセンス
そういった形だけの気持ちのこもっていない「いただきます」がはびこってるからこんな馬鹿らしい論争が巻き起こるのかも??
目の前に出された料理がどうやってここまで運ばれてきたのかきちんと話してあげる機会をそれこそ食卓の席で設けるのもいいのでは??
ご飯=お米の1粒1粒は何ヶ月もかけて育っていくんだよとか。
ハンバーグのお肉はスーパーでパックになってる挽き肉以前の姿があるんだよとか。
そんなたくさんの大切な命を戴いて生きていく生かされていくんだよって。
目の前に出されたものに対して感謝して残さず大切に食べる習慣を身につけた子供はきっといろんな事に対しても自然に感謝の気持ちを持てるんじゃないだろうか。
ワタシ自身「いただきます」「ごちそうさま」はお金を払っていようがいまいが関係なく言っている。
とりあえず深いことは考えずに目の前にいる人…作ってくれた人・運んでくれた人・払ってくれた人…に対する感謝の意味で使う感じ。
口に出して言うことで相手にも想いが伝わるわけだし言う方も気持ちよく食事を楽しむことができる。
ただしこれも最初に書いた通り1人じゃないときに限ってなわけ。
目の前にいない人・モノに対しても感謝の気持ちを自然に持てるようにならなければ…とちょっと反省。
そうじゃないと親になったときに歪んだ子供が育ちそう…
改めて「いただきます」も「ごちそうさま」も綺麗な日本語なのかもしれないと感じた。
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